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命の灯を消さないで
『命の灯を消さないで』
~死刑囚からあなたへ~ 105 人の死刑確定者へのアンケートに応えた魂の叫び
死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム 90 編(インパクト出版会・ 1300 円)
この本は、一般には表に出ることない死刑確定者が書いた文章を編集したものです。ここには、昨年 2008 年 7 月~ 8 月にかけて 105 人 ( 当時 ) の死刑確定者にアンケートを送り、それに応えてくれた 77 人の人たちの文章が載っています。アンケートを送ったのは、 20 年近く死刑廃止運動を中心的に担ってきている「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム 90 」です。死刑が確定すると、その確定者は外部との接触を極端に制限されます。心情の安定と称して、家族と弁護士以外はほとんど面会や文通ができなくなってしまいます。 2006 年 6 月から受刑者の新しい処遇法が施行されましたが、いい状況になったとは言いがたく、むしろ悪くなった面も多いようです。またここのところの処刑ラッシュで、アンケートに応えてこの本にも載っている人のうち、 7 人はすでに死刑執行され、 2 人は病気のため獄死してしまいました。
ここに収められている死刑確定者の言葉には、「命」「生」「死」が溢れています。明日にでも来る死刑執行の恐怖をどうするのか。命を奪ってしまった被害者への償いをどうするのか。これからも生きていく自分の家族はどうなるのか。というような切迫し、切実な、逃れようのない多くのものを抱え込んでいるからでしょうか。
「私の生命はそんなに軽いですか?」
「死刑を受け入れても、生きたいと思う事は別であると、やっと考えました」
「とうときは命の重さ許しこう」
「死をみつめるのではなく、生をみつめて生きたいと思うのです」
「ただの一人として、罪を犯さずに生きうる人間はおりません」
「人の命を奪い、亡くなってしまった被害者にどんな罪の償いが出来るのか考えた時、私の答えはいつも『何も出来ない』である」
「死刑判決で死をもって償えというのは、俺にとって反省する必要がないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか」
「こうした死刑執行という一連の経緯を目の当たりにして、あらためて私の暮らすこの施設は、人間を機械的に殺していく殺人施設なんだと思い知らされました」
「どんな立場で生きていようと、前を向いて生きましょう」
「罪を背負って生きていく事が、本当の意味での償いになるのではないか」
「忘れないで欲しい、命ある限り赦しを請う願いを叫び上げている死刑囚の居る事を、そして贖罪に身を焼かれる事を厭わず刑に服そうと生きている事を」
「独居房から引きずり出され、吊るされてゆくのは、何年も何十年も罪について反省の日々を送っていた人たちなのです」
これらのほんの一部の引用の中にも、生と死をめぐることが書かれています。この他に、自分は冤罪であることを訴えている人もいますし、現状の処遇のひどさを言う人もいます。明らかに精神的に病んでいるのではないかと、思われる人もいます。また体の不調を訴える人は多く、拘置所の処遇が思いやられます。どのように償おうと反省しようと、この人たちはやがて死刑執行をされてしまうのです。そのことはいったいどんな意味を持つのだろうか、と考えずにはいられません。彼らは死刑囚であっても、やはり私たちと同じ生きている人間であることを、これらの文章は私に語りかけることを止めませんでした。裁判員制度は死刑判決を出すことを私たちに強いる制度です。そのことがどのようなことになのかを、私たちは知らねばなりません。そのことの一端を知るためにも、この本を一読することは必要だろうと強く思います。
2009 年 4 月 28 日
可知記
何もかも憂鬱な夜に
『何もかも憂鬱な夜に』中村文則著(集英社刊・ 1260 円)
日本ではここ3年ほどの間に、死刑執行数は年間 10 人を超えるまでになった。それまでの 30 年ほどは、年に 1 人から数人という死刑執行数で推移していた。ここにきて急速に死刑執行数が増えている。ほんの5~6年前までは 50 人ほどであった死刑確定者が、あっという間に 100 人を超えるようになった。法務省としては、死刑執行を早めて、少しでも数を減らしたいのだろう。なぜ 100 人を超えるまでに死刑確定者が増えたのか。刑法犯に対する厳罰化が進んでおり、それに伴って死刑判決が増えているからだろう。しかし統計では凶悪犯罪は増えていない、むしろ減少しているとも言える。凶悪犯罪が増えていないのに、どうして厳罰化が進み、死刑判決が増えるのか。いろいろの理由があるだろう。でも何より私たちの社会が、それを容認しているからだ。いやそれ以上に私たちの社会は、むしろ積極的にそのことを求めているのかもしれない。世界の国々では死刑制度は廃止の方向であり、国連総会は 2 年続けて死刑執行停止の決議を採択している。それにもかかわらず、私たちの国日本では、 8 割の人が死刑に賛成しているという。私たちが賛成している死刑執行を実際に行なっているのが、この小説の主人公である拘置所の刑務官だ。
死刑執行は絵空事ではない。現実に人が人を殺すことだ。人が人を殺すことは、「殺人」である。死刑執行は「殺人」であるという、そのあまりに当たり前のことを私たちは忘れてしまう。だから平気で「死刑にしろ」と言えるのだろう。そして「殺人」には必ず殺人者がいる。その「殺人」を行なっているのが、日本に7ヶ所ある拘置所だ。札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡拘置所、この小説の舞台は、この中のいずれかだろう。この小説は刑務官を主人公にしているが、死刑制度の存廃をどうにかしようと主張してはいない。死刑の話から離れはしないが、単純に賛成とか反対という立場からは書かれていない。死刑囚が目の前にいる状況があり、そのことを主人公である刑務官がどう考え、どう対処するのか。拘置所は、刑が決定するまでの未決囚を置いておく場所でもある。この小説ではそういう人たちとの関わりを交えて、主人公と担当をする少年死刑囚との関係を中心に描かれている。
30 歳になろうとしている主人公刑務官には両親はなく、乳児院育ちである。主人公は、自分の中にもある暴力的なものを、なんとか矯めようとしている。彼は幼くして、自殺を試みたこともある。自殺した高校の同級生に大きな負い目を感じてもいる。幼い頃に別れ別れになった弟、唯一生きているかもしれない肉親への罪悪感もある。その彼が刑務官となって、拘置所に勤めている。少年死刑囚は、 18 歳 6 ヶ月で若い夫婦を殺害している。一審では死刑判決が出て、主人公はこの少年の担当になる。担当となった少年死刑囚も同じ乳児院育ちである。少年死刑囚は控訴しないと決めているようだ。物語は主人公刑務官のいろいろの思いと感情が輻輳しながら、少年死刑囚にどう向き合えばいいのかということへ収斂していく。決して何も解決はしないが、彼は現実から逃げることなく、かかえている問題と格闘し、小さな光明をみつけたかもしれない。
2009 年 4 月 28 日
可知記
東アジアの死刑廃止を求める市民アピール
東アジアの死刑廃止を求める市民アピール
めざせ10万人! 署名運動
いまや世界の7割の国が死刑を法律上・事実上死刑を廃止するなかで、アジアには死刑存置国がいまだ少なくありません。2008年、世界におけるほとんどの死刑執行はアジアで行われました。アジア全体で11カ国、東アジアでは、中国、日本、朝鮮民主主義人民共和国、モンゴル、ベトナムの5カ国が死刑を続けています。
「死刑に異議あり!」キャンペーンでは、2009年12月5日~14日に開催した「国連死刑廃止条約20周年 東アジア死刑廃止大会」をきっかけに、「東アジアの死刑廃止を求める市民アピール」を採択し、これに賛同する署名を東アジアの死刑存置国の政府に届ける署名運動を展開しています。
第3次集約:2011年6月末日、署名の目標:10万人
賛同署名フォーム >>> WEB署名(日本語)、WEB署名(英語)、 PDF(日本語)、PDF(英語)
アピール呼びかけ団体・集約先:
「死刑に異議あり!」キャンペーン
共同事務局: (特活)監獄人権センター & (社)アムネスティ・インターナショナル日本
101-0054 東京都千代田区神田錦町2-2 共同ビル(新錦町)4F
E-mail:petition_adp@amnesty.or.jp / FAX 03-3518-6778
HP:http://www.abolish-dp.jca.apc.org/
*「死刑に異議あり!」キャンペーンは、日本において、様々な違いを乗り越えて「なぜ死刑がいけないのか」を共に考え、声を挙げることを目指して2008年に発足しました。(社)アムネスティ・インターナショナル日本および(特活)監獄人権センターが共同事務局を務め、様ざまな団体、個人、ネットワークが参加しています。
日本カトリック正義と平和協議会の抗議声明(08-10-28)
2008年10月28日
法務大臣 森 英介 殿
日本カトリック正義と平和協議会
死刑廃止をもとめる部会
部会長 ホアン・マシア
日本カトリック正義と平和協議会死刑廃止部会は、福岡拘置所の久間三千年(くまみちとし)さん、仙台拘置所の高塩正裕(たかしおまさひろ)さんに対する死刑執行に強く抗議します。
今回の執行は、昨年12月以来、10ヶ月で6回、のべ18人に死刑が執行され、前回の執行から1か月半しか経っていません。今回の執行で、ベルトコンベヤ式死刑執行が確立されたことに、深い悲しみと怒りを禁じえません。今回の死刑執行に対する法務省の姿勢は、国際人権委員会が最終所見を決定しようという時期に合わせようとするもので、これには、回心しキリスト教徒になった死刑確定者を、クリスマスの時期に合わせて死刑執行した、昨年の事例とともに国の死刑に対する執着した強い意志を感じないではおれません。
私たちは、繰り返し死刑の執行停止を訴えてきました。聖書によれば、生殺与奪の権利は神の分野に属し、また、神はどんな罪人も悔いあらためるよう望まれていると教えています。私たちは、前教皇ヨハネ・パウロ二世の「正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません」『2002年世界平和の日メッセージ』(教皇ヨハネ・パウロ二世)という精神にこそ、人間らしい道を生み出す力があると訴えています。聖書には、罪人が十字架上でイエスにゆるしを求める場面があり、人は死の直前まで、神にゆるしを求めることが大切なことであると教えています。それは犯罪者が本当に罪を償い、神のゆるしを得ることによって、安らかな死を迎えるためです。
私たちは、加害者を死刑にするよりも、更生と犯罪抑止に傾注する社会、復讐や死の応酬ではないいのちを大切にする社会の育成を目指しています。死刑が世論に支持され、死刑執行が増加しているものの凶悪犯罪が一向に減らないのは、死刑が犯罪抑止につながらず、社会に暴力の連鎖を肯定している証しだと考えます。教皇庁は、「どんな凶悪犯罪に対しても非致死刑罰のみを政府は課すべきである」(第54回国連総会、「116A」に関する、教皇大使レナート・マルティーノ大司教からの意見表明)と指導しています。そして今日、「犯罪者から自らを更生する機会を完全に奪うのではなく、二度と罪を犯さないようにすることで犯罪を効率的に防ぐ」という新たな可能性も政府は手にしている(ヨハネ・パウロ二世『いのちの福音』56参照)と教えています。
私たちは犯罪と更生について、今一度本気で考え、いのちの大切さがわかる人間の育成をするべきと考えます。また国に対しては、いのちは神聖で神からいただいたものであるということを心に留め、あらためて死刑執行を停止し、犯罪抑止に全力で取り組むことを要望します。