「大逆事件」死刑判決に異議あり!

1911年1月18日、大逆罪で24名の方に死刑判決が出ました。

翌日12名の方が特赦で無期懲役になりました。1月24日に11名の
死刑が執行され、25日に一人が執行されました。しかし刑死した方の
ほとんどが冤罪だったのです。

大逆罪は刑法73条に「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太
孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑に処ス」とあります。1
909年11月、信州・明科で宮下太吉が爆発実験を行い、明治天皇暗殺
を計画した、というのが大逆事件の発端です。貧困が拡大し、思想弾圧の
激しさが増す中で、「天皇も血を流す人間」であることを証明しようと宮下
など3~4名が計画しました。桂太郎内閣は明科事件を利用して、社会主
義者根絶を図りました。

幸徳秋水は計画に関わっていなかったのですが、「この事件に関係のない
筈がない」と逮捕されました。幸徳秋水との交流関係の中から無実の方々
が大逆罪で逮捕されたのです。大逆罪は大審院のみで、「第一審にして終審」
で、上告の道もありませんでした。

1910年12月、公判が開かれましたが、鶴丈一郎裁判長は公開を停止
しました。裁判所は審理を急ぎ、証人申請をすべて却下しました。全被告
に共通の証拠はなく、事実を無理に繋ぎ、大逆罪犯人に仕立て上げたので
す。武富済など検察の強引な取り調べを始め、100年前の冤罪の構図は
今も引き継がれているのではないでしょうか。(「一羊会」森田麻里子)