7/28の死刑執行に抗議する集会
8 月 8 日 ( 土 ) に文京区男女平等センターで、 7 月 28 日 ( 火 ) の 3 人の死刑執行に対する抗議集会が開かれました。今回の死刑執行は、 森英介法務大臣による 3 回目の執行であり、これで在任期間 10 ヶ月の間に 9 人を処刑した事になります。 2006 年 12 月 25 日の長勢元法務大臣の死刑執行から始まった大量処刑は、鳩山、保岡、森法務大臣と続いた 2 年 7 ヶ月の間に執行 11 回、 35 人に上ります。東京拘置所では、中国籍の陳徳通 ( ティンデュトン ) さん (41 歳 ) が、大阪拘置所では、前上 ( マエウエ ) 博さん (40 歳 ) と山地悠紀夫さん (25 歳 ) が処刑されました。抗議集会は、安田好弘弁護士から死刑をめぐる現状の話が初めにあり、ジャーナリスト青木理さんからはご自身の近著「絞首刑」にかかわっての加害者と被害者をめぐる話などがあり、処刑された陳徳通さんと面会をしていた A 神父が、陳さんとの交流を報告なさいました。その他、前上さんと山地さんの弁護人であった方々からの抗議文書が紹介されました。
安田弁護士の発言は、今回の衆議院解散後の執行 (1969 年以来 40 年ぶり ) は政治的空白期間を狙ったものであり、政権交代が現実味を帯びている今、民主党が政権を取れば当分の間死刑執行ができなるかも知れない、という意図的な駆け込み的処刑である、と法務省を非難するものでした。裁判員制度が無事導入されるまでは半年近くの間は死刑執行をせず、 8 月 3 日から実施される目前を狙った、死刑存置のための政治的な執行でもあると指摘しました。その上、前上さんと山地さんの執行は確定から 2 年しか経っておらず、しかも控訴審を行なわず、一審のみで死刑を確定したもので、死刑囚は必ず三審を保障しなさいという国連の勧告を無視するものであり、確定死刑囚の人権を無視するものである、と今回の執行を厳しく指弾しました。
青木理さんは、近著「絞首刑」の中から多くの事例を紹介しながら話されました。実際に死刑執行を行なうことの無惨さや、その執行にかかわる人々の後々の人生にまで影響を与える精神的な傷についての話。殺人事件をめぐる被害者家族と数多く会って話を聞き、その人たちがいかに深い傷を抱えているか、事件のことはどこまで行ってもいつまで経っても決して忘れられず、加害者を赦すことなどできない、といった話。少年事件で死刑囚となった男性と実際に会い話しをしたこと。その彼と会えば普通の青年であり、とても凄惨な殺人事件を起こしたとは信じられないという話。その彼が被害者遺族と会ったことの話しなども紹介されました。
今回処刑された人たちは、次のような方々でした。
※陳徳通 ( ティンデュトン ) さん (41 歳 )
陳さんは日本語をほとんど話せませんでした。 1999 年に中国人 3 人が殺された事件で、被害者も加害者も中国人で顔見知りであり、同郷の人たちでした。故郷に残してきた妻と子どもは、同郷の被害者遺族から激しい追及を受け、故郷を逃げ出し厳しい生活をしているとのことです。この集会で 3 年間陳さんと面会をしてきた A 神父が話されました。日本語ができない陳さんは、神父が会い始めた当初はよく保護房に入れられていたそうです。最初の頃は会いに行っても、暴れているとのことで面会できなかったことがあったそうです。しかし、希望して最近は猛烈に働き始めたそうです。手先がすごく器用で、人の何倍も働き報酬を得るようになりました。その報酬の 1 万円を「日本の貧しい人たちにあげて欲しい」と神父に渡されることがあったそうです。神父が「それはあなたが使うべきだ」と言ったそうですが、頑として希望通りにして欲しいということで、神父は陳さんの希望通り寄付しました。死刑確定したのが 2006 年 6 月であり、 3 年しか経っていないので、本人はまさか自分が処刑されるとは、全く考えていませんでした。処刑された 7 月 28 日に神父は面会に行っています。その日に処刑されるとは全く知らないで、その朝いつものように面会に行くとしばらく待たされた後、刑務官から「今日は会えません」と言われたそうです。また、謹慎処分でも受けたのかと思い帰宅しましたが、処刑されたことを知り、大変なショックを受けたとのことです。神父は、はっきりとした事は言われませんでしたが、関係者から執行のときの様子を聞いたようです。情報が漏れると迷惑をかける人が出るとのことで、詳しい話は聞けませんでした。しかし、言葉の端々から想像すると、陳さんの死刑執行の場は、陳さんのたいへんな抵抗があり、修羅場以上の凄惨なものではなかったかと思われます。このようにして中国人を処刑するというこの国は、中国を人権後進国と言うことができるのでしょうか。
• 前上博さん (40 歳 )
事件は、 2005 年にインターネットの自殺サイトを利用して、そこにアクセスしてきた人を連続して 3 人殺したというものでした。死んでいく人を見ると興奮するという性癖があったと言われています。彼は自分がある種の病気であることを自覚していました。前上さんの弁護人であった B さんが「前上博氏の執行に抗議します」という抗議文をこの集会に寄せています。その中から抜粋させていただきます。
「前上博氏は常に優しい思いやりを感じさせる人物でした。被害者及び遺族に対しての思いには、反省とか後悔とかいった月並みな言葉ではとうてい表せない深いものがあって、弁護人として衝撃を受けることもありました。前上氏の思いは、自分のような人間が再びこの世にあらわれることのないように、自分の存在の全てを十二分に研究して欲しいということでした。得たい知れないスイッチがパチッと入ったとたん、自分でも全く説明のつかない衝動を覚え、自分でも抑えようのない状態になって、犯行をしていたというのです。 ( 中略 ) 何とかこれを防止したいと思い、進んでカウンセリングに通うなどして努力をしていました。 ( 中略 ) 同様の事件の受刑中にも、そして出所後にも何らの指導も援助もないまま孤独のままに放置され、そのうちに 3 名の殺人という悲劇になったのです。欧米では、性犯罪者への再発防止プログラムがすでに研究の段階を越えて、実施に入っています。前上氏は、わが国においても、このようなプログラムがあれば不幸な被害者と加害者を生まない世界ができる可能性があるということを知っていました。そして、裁判において自らをその検討のための材料にしてほしいと訴えていたのです。 ( 中略 ) 強く求めていた情状鑑定は採用されませんでした。結論は死刑でした。私は即日控訴しましたが、前上氏は取下げてしまいました。 ( 後略 ) 」
• 山地悠紀夫さん (25 歳 )
2005 年 11 月に姉妹殺人事件で起訴され、 2006 年 12 月に大阪地裁で死刑宣告され、弁護人は控訴したものの本人が取下げ、 2007 年 5 月に確定しました。山地さんは、 16 歳のとき自分の母親を金属バットで殺害しています。父親は、母親と彼にひどい暴力を振るっていたそうです。その父親が中学生のときに亡くなりました。その後母親はパート仕事をし、彼は新聞配達をしながら、家にお金を入れて暮らしていたようです。母親を殺した原因はよくわかりませんが、父親がいなくなり母親との生活に期待していたのを、多額の借金を作っていく母親に、ある意味で裏切られたと思ったのかもしれません。少年院を出て、パチンコのゴト師仲間になって生きていましたが、その仲間にも見捨てられてしまいます。そこで自暴自棄になり「母親を殴殺した時に、もがき苦しんでいった姿にかつてない興奮と快楽を得た事を思い出し、誰でもいいから人を殺して同じ興奮を得たいと考えた」として姉妹殺人を犯してしまったようです。
弁護人であった C さんと D さんがこの集会に寄せた「山地悠紀夫氏に対する死刑執行に抗議する」の中で次のように書いています。「(確定後)弁護人の一人とは接見に応じていたが、その他の人とは親族を含め、面会だけでなく通信等も拒絶し孤独の中に閉じこもっていた。山地氏は逮捕後、自ら処刑される事を望んでいるかのようなこと述べたり、露悪的な言動を示すこと等により自らの弱さを隠し、世間から逃れようとしていたように感じられる。山地氏は犯行時 22 歳、現在 26 歳。生きていて何もいいことはなかったと言い、社会と切り離されるなかで今回執行されてしまった。捜査公判を通じた山地氏は、わざと自らを悪く述べ真実とは異なる事実を述べていたのではないかとの疑念は、未だ残る。山地氏の心に迫る弁護ができなかったことは改めて弁護人として無念である ( 後略 ) 」山地さんは死刑判決後、次のように言ったそうです。「生まれてくるべきでなかった。お世話になりました」
アムネスティ日本死刑廃止ネットワーク東京 可知